親を看取って4年…“後悔しない別れ方”を考えてみました

父親を見送ってから、もう4年が経ちました。

日々の暮らしの中でその存在を思い出すこともあれば、ふとした瞬間に思い出す匂いや声、口ぐせに胸がじんとすることもあります。毎日の忙しさに追われるなか、少しずつ遠ざかっていくような気がしていたその記憶が、ある日ふいに目の前に戻ってくることがあるのです。

今日はそんな想いの中で、父親との別れ、そして「後悔しない別れ方」について、ゆっくりと、自分なりの気持ちを整理するように書いてみたいと思います。


最期の時間、私はちゃんと向き合えたんだろうか

父親が病気になったと聞かされた日のことは、今でもはっきり覚えています。
頭が真っ白になるというのはこういうことかと、自分の感情を持て余しながら、ただ必死に情報を集め、行動していた日々。

入退院を繰り返すたびに体力は落ちていき、できることが減っていくのを見ているのは本当につらかった。

でも、もっとつらかったのは、自分がちゃんと支えになれていたか、自分の言葉が親に届いていたのか、自信が持てなかったことです。

「ありがとう」「ごめんね」「助けてくれてたくさん感謝してる」
そういう言葉を、ちゃんと口にできていただろうか。

いま思い返してみると、伝えきれていなかったなという後悔が、やっぱり残っています。


葬儀のあとの“喪失感”は、思っていたよりも静かで深い

葬儀が終わり、あいさつや手続きに追われる日々を越えた頃。
ようやく一人で家にいる時間が増えたとき、心の中に「ぽっかりとした空洞」があるのを感じました。

それは涙があふれるような悲しみではなく、もっと静かで、肌寒いような寂しさ。

あの人にもう電話をすることはないんだ。
あの人が好きだったお菓子を買うこともないんだ。

そんな日常の中の“小さな不在”が、何度も胸をつついてくるのです。

誰にも言えず、夜に一人で「死とは何か?」について考えることもありました。


小さな家族だったコザクラインコとの別れ

実は、父親を見送る数年前、長年一緒に暮らしていたコザクラインコも旅立ちました。

名前はレン。
小さな体なのに、存在感は驚くほど大きくて、家の中ではいつも誰よりも元気に鳴いていました。

毎朝「おはよう」と声をかけると、ピョンと肩に飛んできて、いつも一番近くで私の顔を見ていたレン。

そのレンが、ある日ふと元気をなくし、数時間後に静かに旅立ってしまったんです。

「小鳥の命は短いから」——そう言われても、心の穴はなかなか埋まりませんでした。

言葉を交わせない分、「もっと気づいてあげればよかった」と思う気持ちは、人間の家族以上に強く残ることもあります。

小さな命と過ごした日々も、私にとってはかけがえのない思い出。
そして、レンの存在もまた、「別れと向き合うこと」の大切さを、そっと教えてくれた存在だったと思っています。


「悔いのない見送り方」って何だろう?

人が亡くなると、どうしても“後悔”という気持ちが出てきます。

もっと話せばよかった、もっと会いに行けばよかった、もっと優しくすればよかった……。

でも、完璧な見送りなんて、きっと誰にもできない。

だからこそ、私は「後悔しない」という言葉の代わりに、「できる限りのことをした」と思えるかどうかが大事なのではないかと思うようになりました。

あの時の自分は、たしかに精一杯だった。
そう自分に言ってあげられるようになることが、少しずつ気持ちを癒してくれるんじゃないかと思うのです。


自分の“最期”も意識するようになった

親を看取ってから、自分の最期についても考えるようになりました。

延命治療はどうするか、葬儀の形式はどうしたいか、貯金や持ち物はどう整理しておくか。

こういう話をすると、「まだ早いよ」と言われることもあります。
でも、私はむしろ、元気なうちに準備しておくことが、大切な人たちへの思いやりだと思っています。

エンディングノートを書いてみたり、葬儀社の内容や費用など、最近は「自分の遺影写真をどうするか」なんてことまで考えるようになりました。

ちょっと笑っちゃうくらい現実的だけど、そういうことを考える時間って、決して暗いものではなく、自分の人生を見つめ直す明るい機会でもあるんです。
私の本音は、人生50年も生きれば十分、生きることへの執着は殆どありません。

あえて言うのなら「閃光のハサウェイ」が完結するまでは生きていたいですね!

遺影写真ですが一応用意はしてあります。(加工修正済み)


大切な人と、ちゃんと向き合えているか

日々の忙しさのなかで、私たちはつい「当たり前の日常」に流されてしまいがちです。

でも、親を見送ってからというもの、「ちゃんと向き合えているか?」という問いを、自分の中で何度も繰り返すようになりました。

友人や家族に、きちんと「ありがとう」を伝えているか。
「会いたい」と思った人に、素直に連絡を取っているか。

大げさなことじゃなくていい。
ひとことの言葉、一度の食事、一緒に笑う時間。

それだけで、十分なんだと思います。


日常の中に“別れ”を想う余白を持つ

私はいま、何気ない日常の中にこそ、「別れ」を思い出す余白を持つことが大切だと思っています。

それは決して暗く沈んだ気持ちになるためではなく、今の時間をもっと丁寧に、大切に感じるための“心の準備”のようなものです。

今この瞬間が、あとでかけがえのない思い出になるかもしれない。
そう思うだけで、いつもの景色が少し違って見えるようになります。


過去の思い出と、いまを生きることのつながり

親が生きていた頃の思い出は、いまも私の中で静かに息づいています。

一緒に食べたごはんの味。
叱られて泣いた日の夜の空気。
旅行先での写真や、何気なく交わした会話。

そして、レンと一緒に見た朝焼け、指先にちょこんととまった感触、小さな声での呼びかけも、確かに私の中に残っています。

それらすべてが、いまの私を形づくっていて、ふと迷った時の「心の支え」になっています。

だから私は、忘れようとはしません。
むしろ、思い出すことこそが、今をより豊かに生きる力になるのだと信じています。


自分にとっての“納得できる別れ”とは

「いい別れ方をしたね」と誰かに言われることがあります。
でも、それが正解かどうかは、自分にしかわからないものだと思います。

泣けなかった人も、後悔ばかりだった人も、それでもその人なりにちゃんと向き合っていたはず。

だからこそ、“自分が納得できるか”がいちばん大事。

周囲の声より、自分の声に耳を澄ませてみること。
そして、自分の感情にそっと寄り添うこと。

それが、後悔しない別れへの第一歩なのかもしれません。


おわりに 〜「いまを生きること」が、未来の自分を支える〜

別れは誰にとっても避けられないもの。
でも、その時に「ありがとう」と言えたかどうか、「大切に思っているよ」と伝えられたかどうかで、心に残る重さが変わってくるように思います。

親との別れを経て、そして小さな家族であるレンとの別れも経験して、私は「いまを大事に生きること」こそが、未来の自分をやさしく支えてくれることに気づきました。

今日という一日、誰かと笑ったこと、空を見上げて深呼吸したこと。
そのすべてが、未来の自分の背中をそっと押してくれる、優しい記憶になるかもしれません。

後悔しない別れ方なんて、もしかしたらどこにもないのかもしれない。
でも、悔いの少ない生き方なら、今日から少しずつ始められる。

そう信じて、これからも大切な人たちと、小さな命と、日々をていねいに重ねていきたいと思っています。

それでは今回はこの辺で。
最後までお付き合い頂き、ありがうございました。


日記・雑談(50歳代)ランキング

関連記事一覧