正月や新年度が近づくと、「今年こそ頑張ろう」「新しいことを始めよう」という言葉が、風のように耳に入ってくるものです。
けれど今年は、その前向きな空気に、なぜか素直に身を預けられませんでした。
目標を立てず、習慣も増やさず、例年なら当たり前にしていたことを、あえてしなかったのです。
その選択に、迷いがなかったわけではありません。
それでも不思議と、不安は大きくならず、むしろ心の内側が、少しずつ軽くなっていく感覚がありました。
足さないという決断は、本当に後退だったのでしょうか。
この記事では、体感を手がかりに、「減らすことで起きた静かな変化」を、丁寧に辿っていきます。
この記事の要点まとめ
・「足さない」という選択は、逃げや諦めではなく、人生の段階に合った調整でした
・目標や習慣を増やさなかったことで、「やらなければならない」という負荷が下りました
・不安が減った理由は、努力をやめたからではありません
・「常に成長し続けねばならない」という前提を、そっと下ろしたからでした
・減らしたのは行動ではなく、比較や自己否定といった思考の癖でした
・足さなくても、大切なものはすでに手元に残っていました
日下部信親前に進むって、何かを増やすことだと思ってたんだ。
でも立ち止まって、荷物を下ろすのも、前進なのかもね。



頑張らないって、怠けることじゃない。
今の自分に合う重さで、生き直すことだと思うよ。
振り返ると、私はずっと「足すことで前に進んできた」


努力・目標・習慣を増やせば、人生はよくなると思っていた
若い頃から働き盛りにかけて、私は「何かを足すこと」が前進だと、疑いなく信じていました。
目標を立て、習慣を増やし、できることを広げていく。
この流れは、多くの人にとっても自然な成功モデルだったはずです。
実際、当時は、進む方向が見え、自分を管理できている実感があり、できることが増えるほど、安心感も手に入りました。
社会全体もまた、努力する人、成長し続ける人を、正しく評価していました。
足すという行為は、合理的で、報われやすい選択だったのです。
心理的にも、「何かに取り組んでいる自分」でいることが、不安を抑える役割を果たしていました。
裏を返せば、何も足していない状態は、停滞や後退のように感じやすい空気でもありました。
そのため、
「次は何を足すべきか」
「今の自分に足りないものは何か」
そう考え続けることが、当たり前になっていったのです。
この頃はまだ、それが負担になるとは、ほとんど思っていませんでした。
いつの間にか、「足し続けること」自体が重荷になっていた
年齢を重ね、環境や体力、役割が変わっていく中で、同じやり方が、少しずつ噛み合わなくなっていきました。
それでも、「足すことが正解」という前提だけは残っていました。
違和感は、別の形で表れ始めたのです。
できていない自分。
続かない自分。
以前なら自然にできていたことが、思うように進まなくなる。
すると問題は、環境の変化ではなく、「自分の意志が弱い」「努力が足りない」という解釈にすり替わっていきました。
ここで多くの人が、
「目標に疲れた」
「続かない自分を責めてしまう」
そんな感覚に出会うのではないでしょうか。
本来は成長のためだった行動が、達成できたかどうかを測る装置に変わっていく。
足すこと自体が目的になり、足し続けられない自分を確認する時間が増えていく。
振り返ると、私自身も、その途中にいました。
前に進もうとして積み重ねてきた努力が、静かに、心の負荷へと姿を変えていたのです。
今年、「足さない」と決めた瞬間から起きた変化


あえて“やらなかったこと・増やさなかったこと”
今年に入って、私は意識的に「何かを足さない」と決めました。
何かを投げ出したわけではありません。
これ以上、増やさないと決めただけでした。
まず、新しい目標を立てませんでした。
年の初めに目標を定めることが、いつの間にか重荷になっていたからです。
目標を持たないことは、意欲を失うことではなく、今の自分の状態を、そのまま受け取る行為だったように思います。
次に、生活習慣も増やしませんでした。
良いと分かっていることほど、増えるほど、できなかった日に目が向いてしまいます。
習慣を増やさなかったことで、毎日を「達成か未達か」で測る癖が、少しずつ緩んでいきました。
そして、「今年こそ〇〇する」という言葉を、あえて使わないようにしました。
その言葉の裏にある、
「これまでできていなかった」という前提を、何度も自分に突きつけたくなかったのです。
外から見れば、何も変えていないように見えたかもしれません。
けれど内側では、「足すのが当たり前」という流れを止める、大きな転換が起きていました。
なぜか不安が増えなかった、その理由
足さないと決めたとき、不安が増えるかもしれないと、正直思っていました。
ところが実際には、逆でした。
理由のひとつは、「やらなければならないこと」が増えなかった安心感です。
新しい義務が生まれないことで、朝の思考が、少し静かになりました。
この余白が、不安を受け止めるクッションのように、働いていたのだと思います。
また、意識が未来から「今」に戻ってきました。
目標を立てていると、意識はどうしても、まだ手にしていない未来へ向かいます。
足さないことで、今日の過ごし方、今できていることに、目が向くようになりました。
そして大きかったのが、比べる対象が消えたことによる静けさです。
理想像と比べる材料がなくなると、心は、思った以上に揺れなくなるものですね。
習慣をやめたのに、不安が減った。
目標を立てないほうが、落ち着いた。
それは矛盾ではなく、足し続ける前提から、一度降りたことで起きた、自然な変化だったのかもしれません。
「減らす」と決めて、ようやく見えた本当に大切なもの


減らしたのは行動ではなく、無意識の“前提”だった
減らすと聞くと、予定や行動を思い浮かべがちです。
けれど実際に手放したのは、長年、疑いなく信じてきた前提でした。
常に成長し続けなければならない。挑戦していないと価値がない。
若い頃には、それが確かに力になっていました。
しかし環境が変わっても、前提だけが更新されないと、現実との間に、静かなズレが生まれます。
そこで見直したのは、行動ではなく、その行動を正当化していた考え方でした。
成長し続けなくても、今の価値が消えるわけではない。
その感覚を、少しずつ体に馴染ませていったのです。
結果として、減らす生き方は、我慢ではなく、思考の荷物を下ろす選択でした。
最後に残ったのは、すでに持っていたもの
前提を手放していくと、新しく何かを得た感覚は、あまりありませんでした。
その代わり、もともとあったものが、静かに残りました。
崩さなくていい日常のリズム。
今の体力に合った暮らし。
無理をしなくていい人間関係。
足さなくても、すでに十分だった。
そう思えたこと自体が、減らす選択の、いちばん大きな成果だったように思います。
「足さない=後退」ではなかったと、今なら分かる


人生のステージが変わっただけだった
足さないと聞くと、後退を想像する人もいるかもしれません。
けれど振り返ると、それは前進をやめたのではなく、フェーズが変わっただけでした。
広げる時期。
整える時期。
人生には、その両方があるのだと思います。
今は、整える側に立っている。
それだけのことだったのでしょうか。
何もしないのではなく、「整えている」だけ
減らすという行為には、見極める力が必要です。
何が必要で、何が過剰なのか。
動かないことは、何も考えていないことではありません。
むしろ、次に進むための、静かな準備だったように思います。
「減らす」という選択が合う人・合わない人


今、減らす選択がしっくりきやすい人
目標に少し疲れている人。
頑張っているのに、満たされない人。
その不安が、「できていない自分」から来ているなら、一度、荷物を下ろしてもいいのかもしれません。
減らすことは、やる気を失うことではありません。
今の自分に合う負荷へ、調整することなのだと思います。
無理に減らさなくていいタイミングもある
一方で、自然にやりたいことが湧いているなら、無理に減らす必要はありません。
足すか、減らすか。それを固定せず、今の自分に問い続けること。
それが、一番の近道なのかもしれませんね。
まとめ|今年は「足さない」と決めた。それだけで、十分だった


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
ここまで読み進めてくださったあなたは、きっとどこかで
「足さなければ前に進めない」
「何かを始めていない自分は、止まっているのではないか」
そんな思いを抱えていたのではないでしょうか。
この記事で辿ってきたように、足さないという選択は、逃げでも諦めでもありませんでした。
減らしたからこそ、自分がどれほど多くの前提や期待を背負っていたのかが、静かに見えてきたのです。
不安が減った理由も、頑張らなくなったからではありません。
「常に成長し続けなければならない」「挑戦していなければ価値がない」
そんな無理な前提を、そっと下ろしたからでした。
湯気の立つ静かな時間の中で、ランバ・ラルが、低くこう語りかけてきた気がします。
「歳を取るというのはな、
戦えなくなることじゃない。
戦わなくていい局面を、見分けられるようになることだ」
窓辺の光は、相変わらず柔らかく、何も足さなくても、この時間はちゃんとここにありました。
足さないと決めた。
それは後退ではなく、今の自分に合った場所に立ち直しただけだったのかもしれません。
そう思えたこと自体が、今年いちばんの収穫だった――
今は、そんなふうに感じています。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


